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2011年10月16日 (日)

吉田拓郎 アマチュアからエレックまで⑥

⑤の続き

さてここで吉田拓郎をフォーク界でメジャーに押し上げたイベント「中津川フォークジャンボリー」について説明しておこう。

まだ「政治の季節」を引きずっていた頃であり、聴衆はミュージシャンに反体制を期待していた時代、労音がかかわっていたことでもそういう気風がながれていたように思う。

1969年第1回フォークジャンボリーは手作りのコンサートであり、入場者も2000人ほど、世間の関心もそれほど大きくなかった。

1970年第2回フォークジャンボリーから様相は少し変わってくる。来場者も8000人に増え、規模が膨らんで音楽プロダクションが入り、自分たちのイベントという意識が希薄になっていった。

1971年8月7日から9日にかけて第3回全日本フォークジャンボリーが岐阜県坂下町椛の湖畔(現在の中津川市)で開催された。

テレビ局や雑誌の取材などが入り、第2回目よりもずっと管理されたものになっていた。

この「第3回全日本フォークジャンボリー」でフォーク史を塗り替える事件が起こる。

私自身はまだまだ子供でこのイベントのことすら全く知らなかったが、大人になって年上の人たちと付き合い始め、このイベントに参加した人を何人か知る。

その人たちからもイベントの様子を聞いたことがあるがやはり2006年6月発売のAERA in FOLKの「真説’71フォークジャンボリー」を参考にしよう。

「全日本フォークジャンボリー」通称「中津川フォークジャンボリー」は3回目を迎え来場者15000人を超した。

坂下町の人口が約6千人であるから3倍近くの聴衆がやってきたわけである。

出演者も多数にのぼったため、メインステージと2つのサブステージを設け、間に黒テントが張られた。

旅行を兼ねてやってきて、設営の手伝いをする学生もいた。島根県松江市の高校生、佐野史郎(俳優)もその一人である。

前日までの大雨で地面がぬかるみ、湿気の多い日で、聴衆側は不快な空気が流れていた。

そこで事件が起きる。ドラム缶で作った船から誤って湖に落ちた青年が水死体で発見された。そういうなんとなく不穏な空気の中で「第3回」は開催された。

午後2時半過ぎ、岡林信康がロック用のサブステージで口火を切り、続いて加川良、岩井宏、金延幸子、友部正人、友川かずき、遠藤賢司、はっぴえんど。

メインステージは午後4時過ぎからクライマックス、五輪真弓、ガロ。高田渡が武蔵野タンポポ団を引き連れて登場。サブから加川良が駆けつける。六文銭がステージに上がった時には午前2時を回っていた。最後は午前3時に岡林の「私たちの望むものは」で初日は終演した。

この第1日目 拓郎はメインステージで歌った。約30分の持ち時間だった。

事件が起こるのは翌日、第2日目8日の夕方のことだ。

地面に腰をおろして見ていた聴衆にまず不愉快な状況が起こった。雨で湿った土からの水蒸気で空気がとても陰湿で、同じ姿勢で見ることで腰が痛くなる。

徹夜で見ていた聴衆たちは体を休めるスペースもなく、飲み物も売り切れ、水難事故のために湖に入ることは禁止されたいた。

初日で山を降りる聴衆もいた。

一方、フォークの神様と言われスターであった岡林は聴衆の求めるものと自分の求めるものの温度差に悩んでいた。

拓郎はというと運営に不満を持っていて、メイン、サブというステージの区分けからして気に入らなかった。

岡林がメインでそれ以外はサブなのかという不満が溜っていった。

メインステージは万を超す観客がいるのに対してサブは数百人しか集まっていない。

拓郎がサブステージに行くと高田、加川らが楽しそうに歌っている。その熱に誘われて拓郎はステージに上がった。

と、突然モニターの電源が飛んだ。

                            続く

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